2010.06.20 Sunday
「ことばの前」とは何か
(↑ラスコーの洞窟壁画を、夜空の星の写影、動物達のなぞらえと仮定し、天文学側から研究したドキュメント番組。
独ZDF局アーベントイヤーフォーシュング 09年夏の放送から引用)
私達は母国語のコトバの枠から逃れることは不可能なのでしょうか?
言語の役割の一つに、一義的信号処理を超えた意味の取得-解読があります。
未知の対象との遭遇時、星雲のようにモヤモヤした塊を、分類しようとする行為「分けること」が、
”わかること”、つまり「理解すること」の前提なのか、参照先はいつも母国語の統治下なのか。
他者間通信はもとより、人の内側からのあらゆる情動が、コトバのグリッドに添って振り分けられ、
曖昧なモノも近似値点へと吸着させるよう習慣化され、全てをコトバの枠へ強制格納(留保を許さず即投獄)
しようと働く志向性、この強固な篩のシステムの残酷さについて、長い間考えていました。
専門的には、後のカタログ文化にまで連なる語源、発端のアリストテレスのカテゴリア/ Kategorieや、
カントの判断力に遡れる話ですが、もう少し経験に即した事柄を書かせてもらいます。
前回の続き、外国語について少し想像してみます。一人の人間に複数言語が共存する場合、脳における各語彙の格納状態や文法指令、
階層の在り方は、母国語領域が、新たな学習言語を包含した状態を連想しがちですが、
(成人後に外国語を習得した人は皆気付くことですが)学習開始時は、日本語で蓄積してきた、
頭に既にある辞書を参照しながら一つずつ語彙を対応させ習得していきますが、
ある時点で英英辞典、仏仏辞書、シソーラスなどを用い、 母国語から離れようと学習法を切り替え、暫く続けていると、
新たに外国語独自のグリッド、処理領域が生成され、 日本語を経由せず(飛び越えて)直接、
外国語の文字なり音声と往来できるようになります。原書読書の愉しみというのは、あらすじなど内容、情報摂取というより、
母語の枠を経由せずに文字や新語彙が次々に入ってくる直接的で例え難い刺激にこそあるのです。
この比喩は脳の機能局在論に近いですが、MRIなど無い大昔から、外国語学習の経験則として、
新語用の新たな領域生成をイメージするよういい伝えられてきたようです。
また楽器の演奏の習得、楽譜←→身体運動の往来、スポーツの勘のようなモノも同様に、
処理領域の生成、組織化をトレーニングで促進獲得していくものといえるでしょう。
ポランニーの暗黙知や、昨今の認知言語学など別分野で研究されてきたものが、
実は同じモノを別角度から眺めているようにさえ見えます。
このような新たな技能の獲得が独立して脳にマッピング可能であることから、私達は母国語にそれほど
縛られていないようにも見えますが、単一作業時の脳の稼動領域は棲み分けられ無関係に写る行為でも、
あらゆる場面で私達はメタファーを活用し、効率的に習得作業を行っていることが認知言語学などで指摘されています。
新規参入に排他的ではないけれど、極や配分比率は一定以上動かしがたく、
コトバは見えない所、隅々にまで私達について回っているといえそうです。
意識下で私たちの母国語(日本語)システムが、分類や解剖へ追い立て、比較検証まで行う、
ある傾向をもった機関、情報処理装置として常駐作動しているとしたら、無意識下ではどうでしょう?
言語システムの介入が、切り離されうるのでしょうか。
人が無意識下で発話する場面というと、日頃思わず出てしまう独り言や、睡眠中、夢の最中に発せられる
”寝言”というモノがあります。そこで発せられる言葉は、当然のことながら各人の生まれ育った環境、
通常母国語になるわけですが、日常生活において音声でなく、手話を通じてコミュニケートされている
聴覚障害の方々は、寝言も手話で行うのだそうです。
これは人間が他者とのコミュニケートに限らず、独りで思ったり、考えたりする際も、
コトバのグリッドを通過せざるを得ないと結論付けたくなる興味深い報告です。
深く人を縛るシステムとしての母国語、その役割が明らかになりつつも、あえてここで異を唱えたいのです。
抽象的な記号操作と未分化で噴き上がる情念を並置するのは適切ではないかもしれませんが、
アインシュタインはコトバにならない思考が存在すると言い、前言語的なるものの存在を仄めかしていますし、
人間の想いや情緒がコトバの枠に全て収まるなどあり得ないと、僕は子供の頃から肌で感じてきました。
小さい頃から口数少ない性質で、話す速度もゆっくりな自分が、なぜこれほどまでコトバに拘るのかというと、
言語システムが切り捨てるモノ、コトバに分類される前の微細でいて、<うごめいているモノ>の存在、
その気配をいつも感じてきたからです。 それは実時間で言えば、発話前0コンマ数秒の間、私達の心内で起こっているミクロな、
しかし生をも司る根源と思える現象のことです。
こういう想いからコトバの役割、外延の設定、線引きにおける立法者の意図、その粗さに疑念を持ち、
会話中語彙選択に時間を要してすら、どこか言い切れないモヤモヤした想いがいつも残存し、 時に意気消沈してしまうのです。
そしてその無念さがコトバの余韻として、自分は誰とも通じ合えない異邦人であるという <孤独感>が伴ってやって来ます。
チュッチェフSilentium!のように、コトバにしたとたん それは嘘に化け、喪失感だけが残ってしまうのです。
コトバの裏切り、残酷さに苛まれる時、音楽を奏でたり、絵を描く方がしっくりくる自然な表現方法になります。
逆に日常、早口にまくし立てれる人は、既存のコトバを信じきって全く疑わない、
コトバから「こぼれ落ちるモノの存在」に意識が向かないのだなぁと、社会生活を送る上では快適そうである部分、
羨ましくも思っていました。心における言語システムの占有率は、その人物の性質を大きく方向付け、
特定職務への適正具合など、 おのずと社会の役回りへと大きく反映されてゆくものでしょう。
誰しも子供の頃は、「ことばと対象のあいだ」を揺れ動きながら、少しずつ語彙習得し、
集団生活における条件、各種勉強を積んで社会適合を目指します。
この過程で非合理でコトバの篩からこぼれ落ち、掬えないもの、計量不能なものが、
同時に<教育不可能な領域>でもあり、それゆえ不要烙印を押されカリキュラムから排除されます。
しかしヘラクレイトスの言う ”遊戯する子供”を成立させ支える、おのずから湧き上がる
”好奇心”というものは、一旦殺ぎ取られると、後にどんな擬似メソッドを導入し、
取り戻そうと努力したところで、元の湧き上がる泉へは到達できないのです。
存在そのものが職務に最適化され、娯楽やレジャーなどカタログやマニュアルがないと、”遊び”方が分らず、
休日どうやって過ごしてよいのかわからない大人が大半の世の中になってしまう のです。
勘の良い人はお気付きと思いますが、コトバとは情報-技術の源でもあり、
今私達の身の回りで目まぐるしく進化するテクノロジーと、それをとりまく<野蛮な信仰>を疑い、
資本や欲望の総体として現出する「大きな声」に掻き消され、死に絶えそうになっているモノを 汲み上げ救わねばなりません。
いくら科学技術が進歩し、身体をくまなく観測、データ収集できたとしても、心で起こっている現象と、
脳の血流に相関関係の付与、定義立法するのは他者でしかなく、その意味付けには、最終的にコトバの篩に因らざるをえません。
ウィトゲンシュタインの「他人の歯の痛み」や「語りえぬもの」はどこまでいっても私秘的なもので、
ミラーニューロンが発見され、他者との連関、連鎖を立証できても、それは過去の記憶を各自呼び出し、
相互参照しているに過ぎず、あくまで切り離された間接的なモノなののはずです。
またその経験や素養がない、全く異なる文化圏で育った人種の間では
それすら起こらない可能性もあるのではないかと現時点では感じます。
この連帯を説明するには前に書いた主語(主体/個)を隠す日本語の特異な文法構造や、
古来の語源「おのずから」と「みずから」の差異に示されているように<文化の範疇>にあり、
日々軽々しく飛び交う文化という言葉の意味するものがどれほど重いものか、再認識させられます。
文明が文化を推進すると標榜して急普及し、結果逆に根絶やしにしてしまう事例は 農薬の在り方など様々な分野にあります。
スティーヴ・ライヒのオペラにも登場したリチャード・ドーキンスの知人で、数年前来日もした
進化心理学者ニコラス・ハンフリーの「喪失と獲得−進化心理学から見た心と体」という本に、
約3万2千年前 に描かれた人類最古のショーヴェ洞窟の壁画と、自閉性障害の中のサヴァン症候群と呼ばれる
子供の絵が非常に似ているという興味深い比較研究報告が載っています。
言語未発達な状況の子供が、先天的には持っていないとされる空間認識力、
遠近法技術を学習せず自力で見事に描けてしまう謎。
これはゲシュタルト能力に該当するような何かしらの認識能力の原型が遺伝子レベルで埋め込まれ、
数万年も継承されてきたということなのでしょうか。さらに興味深いことに、そのような患者さんに、コトバを強制習得させると、
自発的には絵を描かなくなるという旨の報告が書かれています。
これは題名通り、新たな技術獲得が、同時に過去の何かを喪失させることを意味し、
絵を描く欲求が言語使用に置き換わったということ。
この失われた欲求は、非合理ではありますが、湧き上がる好奇心の泉と同様、生の活動において重大な衝動で、
その場から発せられ描かれたモノは見るモノにもそれを分け与えてくれる点で個を超え、 公益な存在ともなりうるはずです。
では落書きレベルであれ、こういう子供達が絵を書く欲求とは一体何なのか?
アウトサイダーアートにも言えるようですが、彼らは自分の絵を他人に見せようとしないそうです。
つまり名声や富目的に社会化することを望んで描いたわけではなく、創作過程それ自体に喜びを見出し、
社交性を拒む傾向すらあるようです。 そこには無邪気な遊び心と同時に、祈りに近いモノが込められているのかもしれません。
歴史上、美術や音楽の創作動機は、社会における個の誕生を境に、大きく意味役割が変化しますが、
源になっている、深い部分、創作へと向かわせる動機は同じでなかろうかと感じています。
政治体制のシンボライズや経済活動そのものを目的とした文化は除き、動機が内発性のモノ、
自発的に生まれたものに限ると、それはコトバの枠からこぼれ落ちるモノ、
「語りえぬもの」であるからこそ、絵であり音であるはずなのです。
そこにはデュオニソスの化身ゾーエーがあり、死の欲動、父母未生以前など
様々な呼ばれ方をされつつも、いつも個を超えた大きな生命、死の気配、ある種の祈りに近い、
宗教的な情動へと通底してゆく何かではないでしょうか。 文化-芸術の起源について興味は尽きません。
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暗黙知の次元― 言語から非言語へ マイケル・ポラニー |
シンボル形式の哲学 〈2〉神話的思考 エルンスト カッシーラー,木田 元 |
幼児の対人関係 モーリス メルロ=ポンティ, 木田 元,滝浦 静雄 |
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